最近インターネットと言うものに疑問を感じている…いやそう言うと嘘になるでしょうね。つまり、どこが嘘かと言うと、その「最近」と言う事です。「もっと前から」と書くべきでしょう。
それは「インターネットは、匿名性があるところが良いと思います」と言うメンタリティー(=心情、とでも訳すべきでしょうか)に、関わるものです。それこそ最近(この2、3日の事ですが)この狭山サイトをやってる関係上で、検索をして、いろんなところを読んでいたんですが、あるサイトの投稿の中に(投稿と言っても例の「2ちゃんねる」ではありませんな)(ありませんが2ちゃんねるに関してでした)「匿名ならば、言いたいことが言えますよね」的な(つまりこの通りの言葉ではありませんが意味としては、このような、と言う事です)発言を読んで、そう(上記のように)思ったものです。
なるほど、匿名だと、なんでも言えますね。
この場合「匿名」とは、「ハンドルネーム」(古い言葉で言えば「ペンネーム」と言う事と、ほとんど同義です)も、勿論含まれます。だって、ハンドルネームとかペンネームとかと言ったって、所詮は、「偽名」に過ぎぬのですから。そして2ちゃんねるとかの場合には、それに更に輪をかけた感じで「名無しナントカ」と言う事になるわけです。
匿名、ハンドル、名無し…全て同じ事です。
なんでも言える…いや、それは、別に上記の様な偽名を使わずとも(実名でも)、なんでも言えますよ。それこそが、「言論の自由」と言う事の、本質的な意味です。自分がモノを言う(書く)…つまりは、それが言論の自由ですが、その際、自分の名前を隠す事、即ち、結果的な事かも知れませんが、「実は誰が言ったのか(書いたのか)解らないけれども、兎も角も、こう言う事を言って(書いて)ある」と言う事…が、本当に「自由」な事なのかどうか、ト、言う事です。
誰がそれを言っているのか、書いているのか、聞き手、読み手に解らない、と言う事は、実は、言論の自由では無い、と言う事です。
何故と言って、まずに、その言っている当人、書いている当人が、既にその時点で(名前を隠蔽してる時点で)名前を隠蔽しなければ、発言を出来ない、と言う事であるからです。要するに「自分の発言でない事ように偽らなければ何も言えない」のであれば、それは、自ら、「言論の自由」を放棄している、と言う事です。
次に、読み手(受け手)にとっても、その文章なり言説なりが、一体、何処の誰が言ってるのか、書いてるのか、と言う事が全く解らないのならば、それは「言論の『自由』」と言う事では、括れない、という事にもなるわけです。
まあこれは、「言論」に限らず、「自由」と言う事への、考え方次第によります。小生は、「自由」には、「責任」なり、ある種の「義務」(或いは、その両者を合わせて「責務」と申すのが最もよろしいでしょうか)が、伴うと思うからです。
これほど迄に普及しても、ネットに於ける言説が、何故、テレビや新聞と言った旧型メディアの後塵を拝する事になっているのか、ナぞ、思っていたわけで。まあほとんど結論が出てるわけです。要するに匿名の情報源と言うものがそのそもそもの始めから、信頼性が低くならざるを得ない、と言う事です。
例えば人物の名前が全部「Aさん、Bさん、名無しさん」であるような新聞があったとしたら。そう言うモノは、誰も読まなくなるでしょう。或いは、そのような新聞は、ある種の言論をすると弾圧される事になるある種の警察国家にだけ必要なもので、現在のこの国では。以下同文。